よく晴れた春の日の午後。

井戸から汲み上げた水の冷たさに声を上げながら、近所のおかみ衆が賑やかに挨拶を交わしている。
その輪の中に物怖じもせず、若い娘が通りかかった。
「こんにちは」
「おや、おサンちゃん。お使いかい?」
おサンと呼ばれた娘は足を止め、はにかむように微笑んで「はい」と頭を下げた。
年の頃は12.3歳か。
まだあどけなさが残る、子どもらしい顔立ちをしている。
着ている着物も地味で垢抜けない感じだが、気立ての良さを示すような素朴な笑顔がとても愛らしい。

「おサンちゃんは働き者だね。最初はロロノアさんの下働きと聞いてどうなることかと思ったけど」
「ほんと、小さいのによくやっているよ」
おかみさん達が手放しで褒めてくれるのに、おサンは頬を赤く染めてまごまごとしながら首を振った。
「いいえ、ゾ・・・ロロノアさんが寛大な方なので・・・」
「ええええ、豪気で奔放。いい男なのに気さくで、あたしらも目にしただけで惚れ惚れとしちまうけど、
 ちょっと身の回りに構いすぎないところが心配だったのよ。通いの下女もいたけど、何しに来てたんだか
 わかりゃしなかったし」
「ちょいとあんた!」
白く逞しい肘を揺らせて、おかみ衆が豪快に笑う。
「まあ、おサンちゃんが来てからロロノアさんの屋敷も見違えるように綺麗になったしね。毎日
 美味しいものを食べてるせいか、随分機嫌が良さそうじゃないか。道場にも真面目に顔を出す
 日が増えたって、喜ばれてたし」
「ほんと、おサンちゃんは福の神さ」
おサンは耳まで真っ赤に染めて、跳ねるようにぴょこんとお辞儀をした。
「お・・・あたいなんかまだまだ・・・。ロロノアさんにご恩返しできるよう、頑張ります」
そう言って、頭を下げ下げ足早に遠退いていく。
その仕種に目を細めて、おかみさん達は微笑みながら見送った。

「ほんとに可愛いねえ」
「けどちょっと年がねえ」
「大丈夫、ロロノアさんはああ見えて常識のある人だから、おサンちゃんもゆくゆくはいい家に
 お嫁に出すと思うよ」
「あらあ、あたしはおサンちゃんがそのままロロノアさんの嫁になるといいと思うけど」
「年が離れ過ぎてるって」
「女の子なんて、すぐに娘っぽくなるもんさね」
口々に勝手なことを言いながら、井戸端会議は一層盛り上がった。








おサンが裏木戸から庭に入ると、途端、その背がしゅんと縮まる。
格子柄の着物がくすんだ紺地になり、島田髷の黒髪は金色のざんばらになった。
おぼこい娘は5つ6つの異形の童子となり、パタパタと草鞋の音を立てて飛び石の上を駆ける。
己の姿の変化を認めて、子どもは草鞋を脱ぐと奥の間へと真っ直ぐに向かった。

「ただいま」
昼間なのに薄暗い部屋の真ん中で、ゾロがだらしなく寝そべっている。
「いつの間に帰ってたんだ?飯は」
「んが」
ゾロは鼻を鳴らして口を開け、ふわあと大欠伸をした。
なんとも言えない間抜け面だが、これでも普通にしていればそこそこ男前なのだ。
だからおかみさん達は、ぶらりと出かけるゾロの後ろ姿を眺めてほうと溜め息をついていたりする。

「ああよく寝た。寝覚めに一杯やるか」
「昼間っから駄目だ。柳屋で練羊羹買ってきたから、茶にしようぜ。縁側来いよ」
ゾロはうわばみだが、甘いものにも目がない。
おサンが来てから好きなだけ菓子も食えるようになったと、子どものように喜んでいた。
今まではさすがに、下女に菓子を買ってきてくれとは頼み辛かったようだ。




縁側は午後の陽射しでいい感じに温もっている。
座布団を二つ並べ、真ん中に火鉢を置いて番茶を焙っていると、ようやく起きたゾロがのっそりと顔を出した。
「いい天気じゃねえか」
「でも日が暮れると、まだ寒いぜ」
鉄瓶から湯を注ぐと、ほうじ茶の香ばしい匂いが立ち昇った。
ゾロが向かい側に胡座をかくのを待って、薄く切った羊羹に黒文字を添えて前に置く。


娘から童子に姿を変えた異形の者の名は、サンジと言う。
ゾロが友人の国許へと出掛けた折、ひょんなことから連れ帰った妖狐の子だ。
狐と言えども尻尾も耳もなく、金色の髪に白い肌目立ち過ぎる蒼い瞳と、父方の紅毛人の特徴ばかりを継いで
しまった鬼っ子だ。
母狐にも捨てられ独りで野に暮らしていたのを、行き掛かり上ゾロが引き取った。

狐と言うからには化けるのが本業かと思いきや、サンジには自ら使える妖力というものがまったくなかった。
ただし、何故か他人が望む姿に形を変えてしまうという、摩訶不思議な力を備えている。
本人が扱えず、しかも当人にとっても傍迷惑な幻想を常に身に纏っていなければならない因果な体質とも
言えるため、このような人の多い街中で暮らすことに懸念もあったが、サンジがゾロの屋敷に一歩足を
踏み入れた時から状況が変わった。

―――山奥で拾った、身寄りのない子どもに身の回りのことをさせようと思う。
ゾロがそう告げて近所のおかみ衆にサンジを見せたとき、何故かサンジの姿は田舎臭い少女の姿へと
変貌を遂げていた。

山奥の哀れな子ども。
身の回りの世話。
そして、拾ってきた主がゾロであったということ。
その要素が重なった時、サンジの姿は金髪の童子ではなく年端も行かない田舎娘としておかみ衆の目に映った。
サンジも自分の姿が変化したのは視えるから、すぐさま少女のふりをし直し、そのまま下働きの“おサンちゃん”
として通している。
ただし、ゾロはサンジの本来の姿を知っているから、屋敷内にゾロがいる場合はサンジの姿は童子のそれに変わる。
けれどおサンを知っている人間は童子の姿をしていても少女にしか見えないから、ゾロと他人の間にある場合は、
サンジの姿は中途半端な陽炎のように揺らいでいるのだ。

役立たずなようでいて、結構便利なサンジの妖力を目の当たりにしたゾロだったが、サンジの本性や振る舞い
などが家の中でも窮屈になるのは気の毒に思え、通いの下女もすべて暇に出した。
今は、おサンことサンジと2人でのんびりと日々を過ごしている。

「すっかり春っぽくなったよな。庭もちょっとずつ色めいてる」
サンジは両手で湯飲みを抱えて、湯気に鼻先をくすぐらせながらうっとりとした表情で庭を眺めている。
仕種はじじ臭いのに、白い額やつんとした鼻など全体的に丸味を帯びた横顔がどうにもあどけなく可愛らしい。
ゾロはこの先も所帯を持つ気はないが、子どもなど持ったらこんなものかもしれないと、穏やかな気持ちで
そんなサンジの様子を眺め見ていた。

「あのさ、枝に黄色いのがちょこちょこ芽を出してるあれ、あの木なんだ?」
塀より高く伸びた木に金色の芽が輝いているのを見詰めて、サンジは細い指を差した。
「さあな。借家だし、来たときからあったのかもしれん」
何事にも無頓着なゾロが、庭木のことなど知っているはずもない。
サンジはそう思い直して肩を竦めた。
「ろくに庭の手入れもしねえ奴に、聞いた俺が馬鹿だった」
「おめえが来てから、庭が見違えるようだ。その小せえナリでよく働く」
「草や木は元から好きだ。なんせ山育ちだからな」

独りで幾代も過ごしたサンジにとって、山の木々も生い茂る草花も、すべて友人のようだった。
風に揺れる枝の囁きに耳を傾け、季節の移ろいと共に艶やかな彩りを見せる山々に励まされ、匂い立つ花の
美しさに慰められた。
語りかけても木霊しか戻らぬ場所で、それでもサンジは幸せだった。
人の名残を胸に残したまま、想い出の中で夢を見ているだけで、幸せだった。

だからサンジにとって、今の暮らしはまさしく夢のようでかえって落ち着かない日々だ。
立派な屋敷の中で人間と一緒に寝起きして、娘に化けて(化けている訳じゃないのだけれど)街中に買い物に
出掛けたり、近所のおかみさん達の井戸端会議に加わったり、棒手振りにオマケしてもらったり。
普通の“人間”のような生活ができるなんて、本当に夢のようだ。
山の中にいる頃は、こんな生活自体を夢にだって見ることはなかったのに。

―――狐に抓まれたみてえ
自ら妖狐であることを棚上げして、サンジはしみじみと己の幸運を噛み締めた。
傍らで、羊羹を食べ終えたゾロがごろりと寝転がって尻をぽりぽり掻いている。
そんな姿ですら、気を許し安らぐ他人が側にいる悦びを与えてくれて、春の日差しより温かい何かで自分の
胸が満たされるのを感じた。







「これからちと出かけてくる。今夜は戻らないかもしれないから、戸締りだけきちんとして寝ていろ」
ゾロは玄関で草履を履きながら、サンジにそう声をかけた。
「用心棒の仕事か?」
「ああ、千両屋だ。うまく行けば今晩中に片が付くだろうが、今のところなんとも言えん」
刀を三本腰に差しただけで、古着を羽織るゾロは誰が見ても貧乏侍だが、体躯がいいのでどんなにだらしない
出で立ちでもそこそこ見栄えがする。
しかも、こうして玄関でサンジを振り返り「行って来るぞ」と告げる顔は、普段より2割り増しで男前だ。
同居人としての欲目だろうか。

サンジはつい意識して、上がりかまちに正座しておサンの姿で三つ指を着いた。
最近は意識すれば、自分の姿形を変えることもできるようになってきたのだ。
これも人間界で暮らす修行の賜物かもしれない。

「行ってらっしゃいませ、旦那様」
畏まってそう頭を下げれば、ゾロはちょっと口端をむず痒いような顔をしてから、玄関を出て行った。
足早に遠ざかる左の肩がちょっと下がっていて、照れているのだと思うとおかしさが込み上げる。
サンジの他愛ない悪戯にも、ちゃんと反応してくれるゾロが好きだ。
狐狸の類と侮るでもなく、子どもだからと軽んじるでもない。
誰に対しても分け隔てなくいい加減で正直な、ゾロが好きだ。



「さて、と」
ゾロが行ってしまってから、サンジは立ち上がり大きく伸びをした。
細い手がぐんと伸び、肩幅が広くなり着物の丈が変わった。
白い肌に金色の髪、蒼い瞳をそのままに、異形の青年が姿を現す。
ゾロと同じ地味な着物が不似合いな、華のある容姿だ。
手足の長いしなやかな身体。
背丈はゾロと同じくらいか。
肉付きが薄い分、ほんの少し華奢に見える。
ざんばらの金髪は夕陽を受けて輝くように波打ち、同じく金色の睫毛に縁取られた目は、空の色を写し取った
かのように蒼く煌めいていた。

「んじゃ、日が暮れちまう前に掃除だけ済ましちまおうかなあ」
ゾロがいる間は小さな身体でちょこまかと動いているが、やはりそれでは効率が悪い。
留守の間に本体に戻り、手早く用事を片付けるのがサンジの日課だった。
女よりも肌が白く、黄金の髪に蒼い瞳を持つ男。
これが、ゾロも知らないサンジの本性だ。







ゾロが行ってしまってから、サンジは家の掃除や庭弄りなどして、夕餉の仕度に取り掛かった。
今夜は独りで食べるとなると、自然動作も鈍くなる。
ゾロに食べさせるのが何より楽しくて作るのだ。
なんでも美味そうに平らげるし、向かいの席でその健啖ぶりを見ているだけでサンジは満腹になる。
ゾロの前ではサンジは少女か童子だから、食べる量もさほどはない。
それで少しでも食い扶持を減らせていると思うと、己だけの了見だが満足している。

「まあいいか、残ったら明日の朝俺が食おう」
ゾロが今夜、帰るかどうかはわからないが、戻ったとしても明け方のことになるだろう。
いつでも食べられるように準備だけはしておいて、サンジ自身の夕食は簡単なもので済ませた。
やはり、一人の膳は味気ない。
山の中で暮らした頃は、それほど寂しさを感じたことなどなかったのに―――

「・・・夜も更けると、ちと寒いな」
サンジは一人ごちて、少量の酒を温めると湯飲みに注ぎちろりと舐める。
酒の味は、町に来てから覚えたものだ。
ゾロがあんまり美味そうに呑むから、留守の時に少し試してみたら辛いばかりでお世辞にも美味いとは
思わなかった。
ただ、なんとなく腹の底が暖かくなって気分が良くなる。
ゾロを眺めているときに感じる気持ちと似ているから、こうして一人の時などにこっそり舐めて悦に入る程度だ。
なんせゾロの前では童子だから、二人で晩酌なんて訳にも行かないだろう。
「・・・ちょっとは、してみてえけどな」

時折ふと考える。
ゾロの前でもこんな風に、大人になった己の本性を見せて、二人で酒を酌み交わす日が来るのもいいんじゃ
ないかなとか。
大人の自分を見ても、ゾロはきっと怒ったり嫌ったりはしないだろう。
子どもだろうが大人だろうが狐だろうが、ゾロはたいして問題にしない。
だからきっと、自分がどんな本性を持っていたとしても受け入れてくれる。
けれど、問題は自分にあるのだ。

酒を舐めながらゾロのことを考えていると、サンジはどうにも落ち着かなくなって胡座を掻いていた足を
直して畳に正座した。
膝をきっちり合わして背筋を伸ばすのに、なんとなく内股辺りがもぞもぞしてくる。

妖狐は、その性質が多淫だ。
サンジとて例外ではないはずなのだが、山では“神童”として扱われてきた為、実際に人に触れられたことも
なく、ゾロと共になってからも少女か童子で過ごしているからさほど苦しいことはない。
けれどこんな風に、独りの夜に手酌でゾロのことなど思い返すと、なんとも居心地の悪いような身体の芯が
火照るような妙な心地になる。
もしも、ゾロを目の前にしてこうなったら、なんだか取り返しのつかないとんでもないことになるような気が
して、だからサンジはゾロの前で本性を現すことができないのだ。

「・・・ゾロ」
今だって、その名を呟くだけで目の奥からじんわりと涙が滲みそうで、サンジは酒と共に切ない吐息を飲み下した。






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